魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

眺めること。観ること。

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いろんなことがあったけど
それぞれを記すことができない。
ずっと流れている。
それを眺めていることで精いっぱいだった。

ひとつひとつ記せるマメなひとはいる。
けれどそれを真似ることができるならば
わたしも日々日記を書けているはず。

観察すること。観ることが大事。
日々の変化を見つけることができる。
そこからまた、記していけばいい。

くぷら 創刊(準備)号

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個人詩誌ならぬ個人詩紙『くぷら』、創刊しました。現在限定部数発行です。

もちろん、何処かで誰かと詩を書くことは楽しい。
けれどまずは自分が詩を書き続けること。書き続ける場所。
何処かへ辿り着くには、舟をつくり帆を張ろうという想いからです。

次回からちっちゃなコラムなど書いてみたいなあ。
まずは銭湯コラムとかかな。🙌笑
ゆくゆくは仕事のこと、植物のこと、詩人についてなど構想中です。


もしご覧になりたい方がおられましたら、一度ご連絡ください。お手元に届いた方はどうぞご笑覧ください!

傾きを感知する詩紙『くぷら』を宜しくお願いします👂🐌

縁とは河の流れ。

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2018年お世話になりました。
今年は、自分のことで精一杯な1年でした。
ほとんど更新出来ませんでしたが、
読んでいただいた皆様、ありがたや、ありがたや。
ありがとうございます。

縁というのは流動的なもので
川と同じだと思っています。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずと、言われたものです。

何度も合流して、疎水になったり小川になったり
そして最後は海へ流れ着く。
縁とは、そういうものだと思います。
自然に海へ湖へ、流れてゆくものだと。


それも、これも、全部。
来年の美味しい一杯のため。笑
そして詩人として再始動したく思ふ。

グッバイ平成。カモーンNewyear。

エリ

エリ

祖母の家には猫がいた
名前をエリといった
猫を可愛いと思うのは女の子だからと思っていたし、エリはエリという名前だったから猫は全て雌猫なのだと当時年長組の私は思っていた。
もうひとつ、エリの身体にぶら下がるものがなかった。祖母はエリは「きょせい」していると言っていた。

いつも家に行くと私達は
顔を近づけて鼻と鼻の先を合わせて挨拶していた
眼には眼で、鼻には鼻で。
それが一番の挨拶だとお互い確信していた。
エリの鼻は濡れていたり乾いてたりしていた
その違いはなにかわからなかったし、何故だか自分でもわからないけど
湿ってる時の方が私は嬉しかった。

二階への階段をあがったところに
エリはだいたい横たわっていた
そこに私は添い寝して
エリと鼻と鼻を合わせようとした
けどエリはこっちを向いてくれなかった
仕方なくつややかな茶色い身体を撫でたり
エリの好きな顎の下を指先で掻くように触ったりしていた

帰る日
廊下で寝そべる
エリに顔を近づけた
バイバイ、
またくるね。
鼻と鼻を合わした
しっとりと濡れてて
すこしひんやりした
鼻息は生暖かかった
エリの尻尾の先がぴくっと動いて
私はおへそのあたりがじんわりした

エリは、ほんとはエリオットという名前だよと父は言っていた

その翌年
阪神淡路大震災がきて
祖母の家へ暫く行くことができなくなった
その間、色んな猫に顔を近づけてみた
猫はエリじゃなかった。
エリの鼻を私はよく覚えてる。

繰り返しているようで、二度と来ない日々ー秋吉里実『悲しみの姿勢』ー

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ふと読みたくなる詩集が、良質な詩集だとおもう。

頭のなかに浮かびあがってた詩句があり、その言葉が載ってある秋吉里実さんの詩集『悲しみの姿勢』(草原詩社、2016)を手に取り、何度めかの再読をした。
詩集を頂いてから月日は経ったけれど何度めかの衝動を止めてはいけないと、私はいまこのブログに向かって指を動かしている。詩集は熟成されるのだ。


たくさんの喜びや幸せの陰で、そっと泣いている人がいる、という帯の言葉に秋吉さんの眼差しが現れていると思う。
私の脳裏に何度も現れる詩がある。


悲しみの姿勢を
だれか教えて

まさか今日のように
お皿を洗ったり
髪を乾かしていたときの
あんな形でいいはずがない

「日常」p8



悲しみは決して特別な形をしているわけではない。
毎日顔を合わせる家族でさえ、いま相手が直面している問題に気付けないままでいてるのかもしれない。
例えば家族のいってきますの後ろ姿、テレビのチャンネルを回すときの気の抜けた顔。
その内面には虚ろな穴が開いていて
抑えられた情動、哀しみ苦しみを穴から溢れないように溢れないように、日々を保ちながら生きている。
人という器をそんな風に感じた詩でした。


高揚した目
女が
女の陰口をきくときの

まさか
夢を語っているはずはあるまいし

「集団」p22


詩集の中には長い詩もあるのだけど、私はこうした短めの詩が刺さる。
だらだらと主観を描くより、リアリティをよりセンシティブに客観的に描かれるほうが刺さり方は違う。
女、と呼び捨てることができるのは
自分自身が女であるからこそかもしれない。
女性特有の群がっては、ぺちゃくちゃと話す性質をただ「集団」と題名にするのは気持ちいい感覚さえある。

どの作品も詩として描かれることがなければ
見過ごしてしまう瞬間ばかりが切り取られている。
言葉にした瞬間。詩にした瞬間。
その光景はショートムービーのように読者の中に映し出される。
その光は反射して書き手に映し出される。そうして乱反射を重ねて詩は色濃く、そして何度も読まれるのだと思う。


繰り返しだと思っていた日常が、もう二度と帰ってこない日々になり、感情として産まれ、思い出になる。

詩にすることの必要性を改めて強く感じた詩集です。