魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

なぜ咲くか、なぜ書くか。花々と言葉が深部で絡み合うー河津聖恵詩集 『夏の花』ー

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2015年、河津聖恵さんの「パルレシア―震災以後、詩とは何か」を読んだ。
 

3.11以後、率直に真実を語ることー「パルレシア」ーを誰しもがみな求めていると書かれている。2011年から6年。日本という列車は「見かけ上」、通常運行に務めている。1分の遅れも許されない列車は、国家というおおきな時計のネジに巻き取られていく。
率直に真実を語ることが出来ないのならば、今こそ詩や文学の力が必要なのだと河津(以下河津と書かせていただく)はいう。欺瞞に満ち、自己責任を問われる今の時代に何度も何度も力強い言葉が綴られ「言葉の力」に勇気づけられた1冊だ。
2011年8月、福島県いわき市にちいさな新聞社で1ヶ月住み込み過ごした。
そのとき感じた風評被害、という名のことばの違和感、街中に横たわる静かな魔物。関西と関東との温度差、震災以後生まれたことば対する違和感を私は今の今までの抱えている。『パルレシア』からそれらの問題に改めて対峙するきっかけをもらった。
『パルレシア』については、機会を設けてまとめて論じたいと思っている。

※  ※  ※

『パルレシア』から2年後、今年2017年5月に詩集『夏の花』が刊行された。原発事故後に書かれた花をモチーフとした詩篇である。
月下美人」「月桃」「ベニバナ」「沙羅双樹」「sakura」など、店で並ぶ売られるために等級の付けられた花ではなく、ただ花が花自身のために咲く、誰のために咲いたものでもない、野の花の名の詩の題が並ぶ。

先述のように私は、河津の詩作品よりも詩論を先に手を取り、読んでいたのだが文体や論展開ら硬派なイメージをもっていた。男性のような力強さも感じられた。
論ずるとき社会の出来事を通して目の前の事象を捉えようとする眼差し。現場、そこに住む人しか知り得ないものを捕まえようとするもの。ある意味でそれは記者の持つ執念さにも通ずるだろう。
その姿勢は追って追って追いかける朝駆け夜撃ちのあるジャーナリズム社会の中を生き抜いてきた姿勢のように思えるのである。

※  ※  ※

そういう意識のもと『夏の花』を開いた。
詩集タイトルとなっている詩篇『夏の花』のなかに「悪の花」という印象深い言葉があった。

 世界が世界の外に飛び込もうとした刹那、
 白煙と黒煙が上がった
 あれもまた花々だった
 悪の花ーー


北村太郎『悪の花』とボードレール悪の華
が頭に浮かんだ。
河津の詩論集『ルリアンス』に北村太郎について書いていたことを思い出した。ボードレールの硬派な『悪の華』も頭をかすめたが、ここでは北村太郎の『悪の花』とのリンクが私の中で強くあらわれたのだ。

悪の花「1」 北村太郎

 いま
 1と書いた
 この悪の花は30で終わるはずである

 一日は
 鳥たちの声で始まる
 そのように
 詩が始まったら何とすてきなことだろう
 むろん
 そんな時代は終わってしまったのだ

 詩を何千行
 何万行書いたとしても
 どれほどの意味があるのかと思う
 まして散文など

 ゼロ?

 けさ
 新聞の外電面を読んでいたら
 某国の新聞には
 テロ死亡者という固定のコラムがあって
 毎日、数字が出ていると報じていた

 一日の終わりを
 鳥たちは
 沈黙してしまうことだけで示す
 詩は一日中ひらいている死の目ゆめの目

北村太郎『悪の花』(一九八一)「1」部分


北村太郎のこのテイストと、夏の花は呼応しているように思う。

「夏の花」

 世界が静かにめくれていく
 何者かに剥ぎ取られるのではない
 自ずからめくれ上がり裏返るのだ
 それは焼亡というより
 深淵の夏の開花
 季節を超えてしまった下方へ
 冷たい暗闇を落ちながらひらく花弁の感覚
 あの日以前も背をなぜてそれは
 そっと過ぎていったではないか
 指先や鼓膜にも
 言葉と感情はいわずもがな
 沈黙と闇へだけひらく花々が咲き
 そのたび唇は何かを言おうと
 かすかにひらいては閉ざされたではないか
 「長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。」

『夏の花』 冒頭一部


※  ※  ※


北村太郎の詩の冒頭、詩の世界は鳥のさえずりではじまる。それに対し河津は世界がめくられその下に花々が咲きはじまる。対極にあるように思うが、人間の感覚ではない、自然からのメッセージで世界が始まる。
私たち人に対し、「鳥」や「花」は積極的にコミュニケーションをしてくるわけではない。沈黙したり身を削って跡を残すことで人間へ向けて何かを発している。

しかしその後、『むろんそんな時代は終わってしまった』と悪の花では書かれている。夏の花では時代が終わったとは述べられてはおらず「長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。」とある。来たるべきものとは。いまある現実世界、見ないようにしていたものが見えてきた時代かもしれない。鳥がさえずり、花が咲く時代は終わり、何か別世界が始まったと感じた。

そして詩にどれほどの意味があるのか。
テロ、災害、そして原発。それらを前に言葉なく沈黙する両者詩人の眼が根底に存在する。

終わるべきものは終わるべきときに崩れ、暴かれるものもやがて、その時がくれば真実は明るみに出てくるものだと思う。安全だった世界は、実は脆い壁で築かれたものだと。突然襲うその真実は、正面から受け入れることのできないもので言葉を失い、立ち尽くすことでしかその瞬間をやり過ごせない。
わたしは詩を書く者にとって、震災について、他国の戦争について何も語れないことがひとつの言葉であると思う。言葉の責任が、ある。

※  ※  ※
あとがきによるとこの詩集は原発事故後に書きついだ花のモチーフとする詩、と書かれている。
震災後の真実とすればひとつに原発の脆弱さ、ひとつに震災後の日々であり、現実がある。
そしてことばを発するのを躊躇う詩人。
真実であり現実の日々の中にひとつ揺れる花。
沈黙ということばを貫き、ただ大地に根を張り続ける花。
「ここに花は咲くのか なぜ咲くのか」。
河津の詩の声は、こうも聴こえてくる。
「ここにことばはあるか なぜ書くのか」。

3.11以降、ことばは沈黙した。
言葉の沈黙を越えて、発せられた詩篇
自分自身と向かい合う手立てとしての「ことば」を問うてくれるのが、花々の如く詩が咲く河津の詩集『夏の花』であると私は思う。