魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

インザスモッグ

もう少し飛び出したいなとおもってる。
でも。
私を止める誰かがいる。
私を止める私がいる。
今飛び出しても、収拾がつかなくなる。そう思っている。
やればいい、だけどこの一年だけは
難しいのかな、、と思っている
詩から離れたくないので
引き受けたことはやり切りたいし
詩も書けるだけ書いていきたい

ただ
ずっと春霞の中にいるみたいで
いや、そんなきれいなものでなく
スモッグの中に
もくもくもくもく
自分も煙みたいに、いる。

飛び出し太陽

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影があるく
風がしゃべる
飛び出し太陽
車に轢かれた

声が消えちゃうから
僕、手を挙げて言った
「飛び出したいんです」
飛び出し太陽
散り塵の星々
さよならお月

もう行くね、
そう言って僕は
何万光年の時間を
見つめてきた
いつだってペラペラになる準備は
できていたんだ

森の神様

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森を歩いた
糺の森を歩いた
雨が降っていた
人がたくさんいたのに静かだった
橙の傘を天に差した
蝉達がぎゃんぎゃん泣き喚いた
ひゅうっと冷たい風が吹いた
首の後ろの窪み雫が落ちた
やがて幹や草葉に光の螺旋が降りてきた
森にちいさな神様がたくさん集まっていた
いつも親しくしているひとりの神様を探した
どこにもいなかった
疲れたので木陰で休憩した
仕方なく別の神様と缶コーヒーを分け合った
神様の耳の後ろにある虫刺されに触れようとした
だけど触れずに
空き缶を捨てて神様にさよならは言わずにバス停へ向かった

LyricJungle18号より

あるひとつのほうほう

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このつめたいきもちから
距離を置くことができる
それはひとつのほうほう
あるひとつのほうほうで。

ずいぶん遠くまで来てる
そんなふうに思ったけど
凄く近いところにいた。
遠くにはいっていなかった。
楽しい気持ちのなかに
浸っていたかっただけで
何層にも包まれた芯は青白いまま
みずみずしいまま凍っていて
温度と節度を保ったまま
つめたさは変わっていなかった。

時間だけをエスカレーターの如く
眼の前にただ往来させては
流れ過ぎて行く人の中に
意味を見出そうとした。
術を見出そうとした。

このつめたいきもちから
距離を置くことができる
それはひとつのほうほう
あるひとつのほうほうで。

第一回よるもく舎■合評企画 佐々木漣『漂泊の虎』

〇よるもく相互合評会とは??

詩舎夜の目撃者(通称よるもく舎)内で、不定期でゲストと相互に発表しあう場を作ろうというもの。
作品を相互に批評、感想を出して発表しちゃおうと勝手に考えた企画です。

自分の作品には感想を頂き、相手の作品に感想を書きます。

第一回目の企画の詩人、佐々木漣さんの作品です。




タイトル:漂泊の虎
著者:佐々木漣

すっかり朽ちた森の中で、独り彷徨う
昨日の太陽はもう昇ってはこない
永遠のような冬、欠けた月
風が枝を切り、
剣山のような凍土が下から体温をつらぬく
探しても探しても、
勝者の痕跡は見つからない
戦い、敗れ、失った
火炎のような瞳を
金色の縄張りを
残ったのは骸のような私のみ
やがて夢を見るように目を瞑れば、
今でも思い出せる
繁栄の歳月
木々の囀り
星霜の証
大鹿との格闘
猛々しい獣へ
森が称賛の唄を唄っていた

彼らとともに、滅びることもできる
あるいはそれが幸福なのかもしれない
ここで得たものはすべて、結局、ここで失われるのだ
皆、寂滅と土へ還った

これからどうすべきだろう?
沈黙よりも重い空腹の重さ
いまさら漂泊ができるだろうか?
汚れた爪、牙も折れ、
すっかり老いさらばえた
縄張りの中でしか生きてこなかった私は
一匹のカワズと一緒ではないか

とても恐れている
知らないと知っていることがあまりに多すぎるから
信じる根拠など、何処にもありはしない
しかしそこに、可能性がある限り
私が虎であり、まだこの身の内に、その強さが、残っているのなら
取り戻そう
自分の誇りを
授かったこの体の均斉を
再び出逢うだろう困難の恵みを

月を見上げ、
それから歩み始める
新雪の上を、音もなく
ずっと



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作品を読んだとき、まっさきに思いついたのが『山月記』でした。
冒頭の三行、


すっかり朽ちた森の中で、独り彷徨う
昨日の太陽はもう昇ってはこない
永遠のような冬、欠けた月


は虎となった『山月記』の主人公、李徴の過ごす一人の夜のようにも見えます。
山月記』は自意識の狭間で苦しむ李徴の姿が描かれています。若くして高い地位についた主人公李徴は、上司に使われるくらいなら詩人になって名を残したいと考えるような人物。李徴は職場を離れフリーになるが自分の才能に絶望し数年後再び職場へ戻っていきます。かつての同僚は出世し、李徴は苦手な人付き合いと自意識に苛まれながら仕事をするように。そして出張先で発狂し虎となります。
この詩全体として、発狂し虎として生きる李徴ように自意識に苦しみもがく一面を映dsしているように思えました。


その後の
やがて夢を見るように目を瞑れば、
今でも思い出せる
繁栄の歳月
木々の囀り
星霜の証
大鹿との格闘
猛々しい獣へ
森が称賛の唄を唄っていた


では二行目「思い出せる」とあるように、自らの持っていた最初の連にある「火炎のような瞳を 金色の縄張りを」を持っていた虎が「繁栄の歳月」を振り返っており、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡っていると思わせます。


彼らとともに、滅びることもできる
あるいはそれが幸福なのかもしれない
ここで得たものはすべて、結局、ここで失われるのだ
皆、寂滅と土へ還った


は失ったものに対する思いが描かれていますが、失った者への言葉ではなく視点は自らどうなのかという視点があると思いました。滅びた彼らは「仲間」「同志」ではなく「戦い、勝利する相手」であり「自分はそれらと共に土へ還ることが幸せなのかもしれない。不幸な道を歩いてしまった」というやや強まった自意識が現れているように感じました。しかしそれは正面から現実を受け止めたからこそ現れる言葉であり、簡単に発せられるものではないと思いました。


沈黙よりも重い空腹の重さ

という言葉が次の連でとても活きているように思いました。沈黙より重いものが空腹である点でかなりの飢餓状態がそこにあり、沈黙から脱することのできるような状況の変化と喧騒を欲していると思いました。それを受けての最終連にある、


月を見上げ、
それから歩み始める
新雪の上を、音もなく
ずっと


という連も『山月記』の終盤にある『一行が丘の上に着いたとき、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。』のワンシーンを彷彿とさせました。
 詩全体を『山月記』の流れに沿って読み進めるように作品を感じ、読むことが本来としたらその通りに読み進めることが出来て読みやすかったです。
佐々木さんの詩は繊細なシーンを具体的で詳細に、そして鋭く大胆に描かれる作品が素晴らしいです。もっとも、作者が『山月記』を一つモチーフとして置きつつ作品が描かれたのかは不明ですが、もしもそうではない意図が存在するのであれば『山月記』から飛び越えた作者自身のさらに濃く凝縮された視点を今後見てみたいと思いました。


追記:感想を読んでいただいたあと作者から作品について有難いことに簡単にお話してくださった。
その内容は今回の自分の感じ方とは違うものでした。それは驚きと知らなかった新たな知識を必要するものでした。

多角的な側面を知ると作品の広がりを感じ、やはりそれが詩の面白いところで。
詩の様々な解釈と統合を拾い、見つけ、受容し、再び言葉へと還していきたい。

参考文献:『李陵・山月記中島敦 新潮文庫


佐々木漣さんのブログです。
rensasakiroom.hatenablog.com

今回のような相互発表企画を不定期でやっていこうと思っています。
ありがとうございました。



早速、次回を思案中!
どうぞよろしくお願い致します。

第一回よるもく舎■合評企画『太陽の親子』作者感想

前回の記事にて佐々木漣さんに感想を書いていただいたので、いただいた言葉にひとこと感想を書いてみようと思いました。
更に自分の作品について語ってみることで、何かおもしろいのが見えてくるかなあと試験的にやってみます。

読んだらおもろない、という方は読まずに、
へー、そーなんだー的に読んでください(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太陽の親子
魚野真美

夜明け前
いつかあなたと走った道路に寝そべり
あなたの冷たさと同じくらいに
身体は硬直して
冷たくなっていくのがわかる

空が白む頃
誰もいなかった道の上に
太陽の子が走った
横たわる私を踏むことなく
太陽の子は西の方角へ走った

やがて少しずつ身体は明るくなり
目覚め起き上がる私は
太陽の親子といつもの朝食を囲む

今日もまたあなたとの冷たさを
未だ共有できずにいる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
青文字は佐々木さんの感想から抜粋したものです。

●この詩では「身体」と書かれているが、「体」だといくらか肉感的に過ぎ、「からだ」だと弱いので、私も「身体」と表記すると思う。作者はそのあたりも意識したのだろうか?
 →意識した、というよりも普段から「体」を「身体」と書く方がしっくりくるなあと思い使い続けています。

●第二連は、「空が白む頃」と始まるが、これだと、第一連の「夜明け前」と時間の経過が少し早い気がする。別の表現を使うか、もう一連何か書くと、読者もより自然に、夜明け前からの経過を体感できるのではないか?
 →夜明け前は「光のない状態」で太陽光を感じ始める「白む頃」に焦点、意味を持たせたかったのですが、確かに時間経過が急という感じ方もあるのだと知りました。

●ところで、この作品では、太陽が単独で出てこない。出番があった方が良い気もする。
 →光を射す太陽があって、照らされた道の上に太陽の子が走るイメージで書いてみました。

●「目覚め起き上がる私は/太陽の親子といつもの朝食を囲む」、ここがこの詩の最大値なのだが、どうとらえるか非常に難しい。
 →確かに急に朝食?!みたいな感じですよね(笑)。自分ではさっきまでいた太陽の親子と日常を送る感じ、です。

●第四連はたった二行だが、まるで人が死ぬ美しさと、死を受け入れられない静かな葛藤で終えるのは、十分な余韻を残している。
 →「今日もまたあなたとの冷たさを/未だ共有できずにいる」ですね。昇ってくる太陽によって道路の冷たさを感じられなくなり、何度も夜中に冷たさを味わうために道に横たわる、というイメージでした。太陽があることで感じたい冷たさを奪われるのだけど、太陽によって日常を与えられるという感じです。




読み手の佐々木さんの優れた鋭い読み方に他者への表現の見え方を感じることが出来ました。
すっと腑に落ちる伝え方をしてくださっていて、そして細部まで読んでいただけて本当にありがたかったです。
どういう風に読み手に読んでほしいかとか、でもやっぱり自分の書き方譲れないや!とか見えない自分自身を客観的に知れること、が出来るのが合評だなーと思いました。



次回は、佐々木漣さんの詩作品を読ませていただいたものを書かせていただきます。