魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

第一回よるもく舎■合評企画『太陽の親子』作者感想

前回の記事にて佐々木漣さんに感想を書いていただいたので、いただいた言葉にひとこと感想を書いてみようと思いました。
更に自分の作品について語ってみることで、何かおもしろいのが見えてくるかなあと試験的にやってみます。

読んだらおもろない、という方は読まずに、
へー、そーなんだー的に読んでください(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太陽の親子
魚野真美

夜明け前
いつかあなたと走った道路に寝そべり
あなたの冷たさと同じくらいに
身体は硬直して
冷たくなっていくのがわかる

空が白む頃
誰もいなかった道の上に
太陽の子が走った
横たわる私を踏むことなく
太陽の子は西の方角へ走った

やがて少しずつ身体は明るくなり
目覚め起き上がる私は
太陽の親子といつもの朝食を囲む

今日もまたあなたとの冷たさを
未だ共有できずにいる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
青文字は佐々木さんの感想から抜粋したものです。

●この詩では「身体」と書かれているが、「体」だといくらか肉感的に過ぎ、「からだ」だと弱いので、私も「身体」と表記すると思う。作者はそのあたりも意識したのだろうか?
 →意識した、というよりも普段から「体」を「身体」と書く方がしっくりくるなあと思い使い続けています。

●第二連は、「空が白む頃」と始まるが、これだと、第一連の「夜明け前」と時間の経過が少し早い気がする。別の表現を使うか、もう一連何か書くと、読者もより自然に、夜明け前からの経過を体感できるのではないか?
 →夜明け前は「光のない状態」で太陽光を感じ始める「白む頃」に焦点、意味を持たせたかったのですが、確かに時間経過が急という感じ方もあるのだと知りました。

●ところで、この作品では、太陽が単独で出てこない。出番があった方が良い気もする。
 →光を射す太陽があって、照らされた道の上に太陽の子が走るイメージで書いてみました。

●「目覚め起き上がる私は/太陽の親子といつもの朝食を囲む」、ここがこの詩の最大値なのだが、どうとらえるか非常に難しい。
 →確かに急に朝食?!みたいな感じですよね(笑)。自分ではさっきまでいた太陽の親子と日常を送る感じ、です。

●第四連はたった二行だが、まるで人が死ぬ美しさと、死を受け入れられない静かな葛藤で終えるのは、十分な余韻を残している。
 →「今日もまたあなたとの冷たさを/未だ共有できずにいる」ですね。昇ってくる太陽によって道路の冷たさを感じられなくなり、何度も夜中に冷たさを味わうために道に横たわる、というイメージでした。太陽があることで感じたい冷たさを奪われるのだけど、太陽によって日常を与えられるという感じです。




読み手の佐々木さんの優れた鋭い読み方に他者への表現の見え方を感じることが出来ました。
すっと腑に落ちる伝え方をしてくださっていて、そして細部まで読んでいただけて本当にありがたかったです。
どういう風に読み手に読んでほしいかとか、でもやっぱり自分の書き方譲れないや!とか見えない自分自身を客観的に知れること、が出来るのが合評だなーと思いました。



次回は、佐々木漣さんの詩作品を読ませていただいたものを書かせていただきます。