魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

書評 詩と思想六月号 末広吉郎詩集『板切れ』

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書く機会をいただいたので、是非こちらにもご紹介します。
詩と思想六月号の書評ををこちらに載せておきます。


書評 末広吉郎詩集『板切れ』

今回恐縮ながら書評を書く機会を頂いた。詩集を読んで感じたことを言語化するのは難しい。
私が作品をことばにする際に気を付けていることは、作者の表した言葉にめいっぱい浸ること。
ひたひたになって私の中心に染み込んできたその時の感覚について、出来得る限り書いていきたい。

 末広吉郎詩集『板切れ』は白を基調とし、表紙の一部に左官が鏝(こて)で漆喰を塗ったような風合いが感じられる装丁だ。最近では家を建てる際、左官ではなく家主が鏝を使って壁を塗ったりするという話を聞く。そんな風に詩集『板切れ』も自ら壁に塗ったことばに囲まれながら生活する書き手の姿が見えてくる。

帯に詩句の一部が描かれている「洗濯物諸考」は、まぶたの裏にはためく洗濯物と実際のベランダに静止している布切れとの間に「僕の内部と違った光景」を語り手は見る。僕の内部ではためく洗濯物である僕のシャツが語りかけてくるという場面がある。

「僕の分身はそのまま虚空の中に消え去ってしまう」とあり「僕は僕なりの家庭の中にそれらの僕自身の分身を見失わないうちにしまい込まねばならない衝動を感じる」と続く。自分の無意識下に過去の記憶やパラレルワールドは息づき、現在の自分を支えていると思う。傷が疼く様にそれらが何者かに代わり現れた詩で、人間の内部の奥行きを垣間見る作品と感じた。末広の鏝によってつくられる透き通る塗り壁に、ことばが現在過去未来を自由にすり抜けていく。

なみのまにまに

ご無沙汰してます。
昨年から専門学校へ通い出し、今年が最終年度でありなかなか更新できずにいます。

四年制大学卒業が条件の学校で、幅広い方と一緒に勉強してます。私はクラスでいうと真ん中らへん?一番下は大学卒業してすぐの人。一番上は、、人生の先輩!笑

今年度末までは更新が滞ってしまうかもですが、たまに覗くとばんばん増えてたり、、?笑
よろしくお願いします。

電車の音。

駅から歩いて15分位のところに住んでいる。

駅まで遠いなあ〜と思うのだけれど
夜になると、電車の音が窓から聴こえてくる。
結構大きく聴こえてくる。街がそれだけ静かになったんだな。
そしてその音を聴いてほっとする。

ここに引っ越しする前、
家の目の前に線路があって
踏切の音と電車の音が聴こえていた。
子供の頃の記憶。
電車の音が聴こえないと外へ出たら
案の定電車が線路の途中で止まってたりして
電車の音のない生活があり得なかった。

電車はみんなの脚になり得る。
そして時に誰かにとって騒音になり
誰かにとって、少なくともわたしにとっては
電車の音は無くてはならない音だったり。

生活音、といったら凄く地味なんだけど
それってほんまに染み付いてることなので
自分のリズムになってるんだろうなって思う。

詩人は王国。

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ちと極端なお話。

日々集団の中で強制?矯正?させられてるからか
プライベートでは真に大事な人や自分が必要と思うことしか付き合いたくなくなってくる。
ほんとーに大事なものが見えてくる。それは良かったのかもしれないけど、ほかは我慢的になってるかなー。いいのか悪いのかはもう少し先でわかるかな。

それに。
特に詩は仕事ではないのだから、ご縁もありきの関係ではあるけど、能動的に付き合いたい。
なんでプライベートまでなんか気遣わなあかんねや的な。

詩は自分の作った世界で国なのだから、外交もしやなあかんときもある。でも自分の国づくりを大切にしやなとは思う。戦争はしたくないし、資源がなくなれば他国(他の詩人)と交流したらいいし、詩を読む。
詩集は自分がどんな国を作ってきたか、を他国に対する発表みたいなものと考えてて、発表ベースよりやっぱり自分の考えを固めること、思考ベースが必要だ。

人間関係も独りをベースに持ってるほうがいいように思う。繋がりに期待せず、まず独歩でいく覚悟。
公私共に期待の目をないところで過干渉を避けて、まずはせっせと自分の国を豊かにしてゆきたい。
その先に共に歩いてくれる人や手を差し伸べる人、声をかけてくれる人、共有できる人がいれば本当に幸せだと思う。

永遠のエース候補といわれてー卓球男子、松平健太におもうー

世界卓球男子団体戦を見ていた。(わたくし中学時代、元卓球部でした。思えば地区優勝も果たし、スポーツに燃えた三年間でした。その後高校では和太鼓部に入部。)

リオオリンピックにて、男子卓球のメダル獲得へと導き、キングオブジャパンと言われた水谷隼28歳。
全日本卓球選手権にて史上最年少優勝を成し遂げた張本智和16歳。そこにもうひとり、見慣れぬ美しい顔がひとり。

松平健太27歳。2006年に世界ジュニアシングルス王者になり、神童と謳われた。独特のしゃがみこみサービスは松平健太ただひとりしか打ち出せないと言われている。長年エース候補と言われ続けていたそのとき、『三角線維軟骨複合体損傷』という怪我で停滞する。
その後2009年、北京五輪優勝者馬琳との熱戦を繰り広げるなどレジェンドを創るひとりとして十分な力を持っている人物なのだが、何度も不振に見舞われる。
そうしてリオオリンピックで水谷隼とともに団体戦を組んだ吉村真晴や丹羽孝希などがぐんぐんと力を伸ばしてゆく、、。松平健太は何度も浮上と低迷を繰り返していたそうな。

そして今年の世界卓球。
わたしは初めて松平健太を見た。
なんというか、影があった。永遠のエース候補、天才卓球、神童など言われていたものの、なかなかその地位を立ち続けることができなかった悔しさの影を感じた。

アナウンサーが松平健太の戦う韓国戦の途中に「僕は僕を信じたい、と話した松平健太です。」というコメントがあった。

松平はこれまでに何度も立ち上がって、何度ももう駄目ってきっと何万回も思ったんだと思う。「でもまだ出来る、僕は僕を信じたい」自分のやってきたことを信じたいと、自分自身で思うことができるって凄いなーって思った。
誰かに信じてもらうんじゃなくて、自分が自分を信じること。すごく勇気のいる言葉だと思って、同年代の人達にパワーをもらった。
水谷隼も張本に負けてから肩の荷が下りたって話していたみたい。重圧がすごいんだろうな。水谷も松平も。そして張本も。

期待された人達、一度頂点に手をかけた人達。
その精神力と、スポーツマンシップに心打たれてやっぱりスポーツっていいなーと思った次第です。

不在という存在を書き続ける。-山岡遊個人詩誌『犯』54号-

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四月の初めに、山岡遊さんから個人詩誌『犯』が届く。
関東から故郷高知へ戻られたことは、昨年4月に参加させていただいた詩の虚言朗読会にてお伺いしていました。
泉谷しげるのような豪快さで、ビシビシ他者を切るような方なのかなーと一見思えた。
初めてお会いしたときお酒が入っていながらも柔らかな眼差しで「やあ、詩の世界を盛り上げてくれよ」とお声かけてくれた山岡さん。
背筋がピンとなる心持でした。

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1年ぶりの詩誌と書いてある『犯』の1ページ目の目次の上には
「田に水は引かん
コメは作らん
畑はほおる
おれは
手や
足を
洗うように
少しずつ
国を捨てながら
生きていく」
という言葉が刻むように並べられていて、目の前の光景を凝視している詩人の姿が浮かんだ。

全16ページの内容で、8ページ目にある「土佐日記」の中では
「かつて感じた日々を生きる空気との衝突感やひりひりする摩擦感はない。
よってこれらの感覚を一つの詩作の糧としていた私は、現在<言語の枯渇>に陥りかけている」と書いていて
ありのままをさらけ出す在り方に、私の中の忘れかけていた感覚がびしびしと叩かれて反応する。
土佐日記の最後はこう締めている。
「山間の空に睨まれた僻遠の地で、ただ、ただ「詩は必要なのか」という問いが、死にぞこないの蛇のように鎌首をもたげてくる今日この頃である」

「詩は、アリバイ工作」とあとがきに書いてあった。
アリバイとは現場不在証明、という意味である。
「あなたの前には私はいません。私は別の場所にいて、詩と私は別存在である」という存在証明としての詩が描かれている。
54号目の詩誌を出し、詩を書き続ける行為そのものが、「私はここで生きている存在」=存在証明を刻む言葉に、力が湧いてきました。

山岡さんありがとうございました。