魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

不在という存在を書き続ける。-山岡遊個人詩誌『犯』54号-

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四月の初めに、山岡遊さんから個人詩誌『犯』が届く。
関東から故郷高知へ戻られたことは、昨年4月に参加させていただいた詩の虚言朗読会にてお伺いしていました。
泉谷しげるのような豪快さで、ビシビシ他者を切るような方なのかなーと一見思えた。
初めてお会いしたときお酒が入っていながらも柔らかな眼差しで「やあ、詩の世界を盛り上げてくれよ」とお声かけてくれた山岡さん。
背筋がピンとなる心持でした。

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1年ぶりの詩誌と書いてある『犯』の1ページ目の目次の上には
「田に水は引かん
コメは作らん
畑はほおる
おれは
手や
足を
洗うように
少しずつ
国を捨てながら
生きていく」
という言葉が刻むように並べられていて、目の前の光景を凝視している詩人の姿が浮かんだ。

全16ページの内容で、8ページ目にある「土佐日記」の中では
「かつて感じた日々を生きる空気との衝突感やひりひりする摩擦感はない。
よってこれらの感覚を一つの詩作の糧としていた私は、現在<言語の枯渇>に陥りかけている」と書いていて
ありのままをさらけ出す在り方に、私の中の忘れかけていた感覚がびしびしと叩かれて反応する。
土佐日記の最後はこう締めている。
「山間の空に睨まれた僻遠の地で、ただ、ただ「詩は必要なのか」という問いが、死にぞこないの蛇のように鎌首をもたげてくる今日この頃である」

「詩は、アリバイ工作」とあとがきに書いてあった。
アリバイとは現場不在証明、という意味である。
「あなたの前には私はいません。私は別の場所にいて、詩と私は別存在である」という存在証明としての詩が描かれている。
54号目の詩誌を出し、詩を書き続ける行為そのものが、「私はここで生きている存在」=存在証明を刻む言葉に、力が湧いてきました。

山岡さんありがとうございました。