魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

繰り返しているようで、二度と来ない日々ー秋吉里実『悲しみの姿勢』ー

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ふと読みたくなる詩集が、良質な詩集だとおもう。

頭のなかに浮かびあがってた詩句があり、その言葉が載ってある秋吉里実さんの詩集『悲しみの姿勢』(草原詩社、2016)を手に取り、何度めかの再読をした。
詩集を頂いてから月日は経ったけれど何度めかの衝動を止めてはいけないと、私はいまこのブログに向かって指を動かしている。詩集は熟成されるのだ。


たくさんの喜びや幸せの陰で、そっと泣いている人がいる、という帯の言葉に秋吉さんの眼差しが現れていると思う。
私の脳裏に何度も現れる詩がある。


悲しみの姿勢を
だれか教えて

まさか今日のように
お皿を洗ったり
髪を乾かしていたときの
あんな形でいいはずがない

「日常」p8



悲しみは決して特別な形をしているわけではない。
毎日顔を合わせる家族でさえ、いま相手が直面している問題に気付けないままでいてるのかもしれない。
例えば家族のいってきますの後ろ姿、テレビのチャンネルを回すときの気の抜けた顔。
その内面には虚ろな穴が開いていて
抑えられた情動、哀しみ苦しみを穴から溢れないように溢れないように、日々を保ちながら生きている。
人という器をそんな風に感じた詩でした。


高揚した目
女が
女の陰口をきくときの

まさか
夢を語っているはずはあるまいし

「集団」p22


詩集の中には長い詩もあるのだけど、私はこうした短めの詩が刺さる。
だらだらと主観を描くより、リアリティをよりセンシティブに客観的に描かれるほうが刺さり方は違う。
女、と呼び捨てることができるのは
自分自身が女であるからこそかもしれない。
女性特有の群がっては、ぺちゃくちゃと話す性質をただ「集団」と題名にするのは気持ちいい感覚さえある。

どの作品も詩として描かれることがなければ
見過ごしてしまう瞬間ばかりが切り取られている。
言葉にした瞬間。詩にした瞬間。
その光景はショートムービーのように読者の中に映し出される。
その光は反射して書き手に映し出される。そうして乱反射を重ねて詩は色濃く、そして何度も読まれるのだと思う。


繰り返しだと思っていた日常が、もう二度と帰ってこない日々になり、感情として産まれ、思い出になる。

詩にすることの必要性を改めて強く感じた詩集です。