魚野真美 詩舎 夜の目撃者

詩と、その周辺について。

読むほどに身体器官と感覚が研がれてゆく―荒木時彦詩集 『NOTE 002』―

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荒木さんから詩集が届く。
いつもシンプルな詩集。

以前送ってくださった
NOTE001もあるのだけど
しばらく読めなかった
何故だろう
そしてNOTE002を読んだあと
すんなりとNOTE001は読めた。
何故だろう

※  ※  ※

荒木さんの詩は
いつも散文詩
(わたしが荒木さんに出会った頃から)
そしてとりとめのない日々の一枠が切り取られ
淡々と語られてゆく。
長編小説の中にある
メインの川の流れとは違う話の中の一つ
のような脇道のような風景。
けれどその風景は
長く語られるその物語の中では
なくても話は進むのに
なくなるとメインの話だけでは話は破綻してしまう。こうした脇道があるからこそ、人は呼吸できると思うし小さきものや些細な出来事に必然性を感じる。


NOTE002の始まりは車の話だ。
車を運転しない語り手なのに、見かける車に対してすらすらと答えるその口調はマニア級に詳しい。
友人がバイク乗りでよく、道に走るバイクはなになにだとか、あれは何年代のものだとかよく聞いていた。だから乗る人にとって知識は必然と深まってゆくのだけど語り手は車に乗らない。
ちぐはぐさだけが浮かび上がり、その語り手のバックボーンを想像する。

つぎは日記について。
日記を書いては、ノートが埋まれば捨てる
とあった。
捨てるんだーと思った。けど振り返ればあまり日記なるもの、メモのような感じになってるから読み返さないかもしれない、ならば捨てても変わらないのかもしれない。

でもそのあと、2つほど詩がならんだのち「いずれにしてもスケジュール帳は必要だ」との一文がある。
ある人は日記はメモで、スケジュール帳が日記なのかもしれない。


最後、新聞を読むシーン。
「途切れることなく、さまざまなことが起こり、報じられる」「私たちが把握できるのはそれぞれの断片でしかない。頭の中で、それらを関連付けようとしても、情報が多すぎて処理することはできない。」「僕の日常はそれらとは関係なくうごいている。僕は、自分のスケジュールをこなすだけであって、新聞の中の出来事とは、とりあえず関係がない。」

どの問題も関係があるのはわかるけれど、自分の身体ひとつで感知し認知するには限界だ。
自分の感じ得れる日常が世界のすべてだ。
この世界と新聞の先に描かれる誰かの世界は、空間と時間は共有しているけれど
自分が救えることができるのは
自分の周りと、自分だけだ。

「一つの出来事と、もう一つの出来事が関係するのは、結果としてそう見えるのであって、事前にわかるものではない。私たちが、それを知ることができるのは、いつも後になってからだ。」

すべで結果だけがみえている。ニュースは事後報告だ。過程が見れるのはその周辺のひとたちだ。
自分自身はその過程を皮膚感覚で認知してゆくことしかできないし、それが全てだと思う。
結果はいつだってどこだって知れるはずだ。



※  ※  ※
荒木さんの詩は難解で
どのように読めばいいかわからなかった。
けれど
ただそこにある結果として読むことによって
自分の中の過程や感覚を振り返り、認知するきっかけを目覚めさせる詩なんだと思えるようになった。
荒木さんの詩はすっと読めるけど、その先の意味を探ろうとしていた。
けれどそうではなく、ある意味では喉越しを味わうというか、その感覚を味わうことによって自分の喉頭の存在を感知する、そのものを気づかせてくれる詩なのかもしれない。